あるヨギのブログ

実際の修行の体験に基づいて、思ったことを綴ります。同じ道をこれから歩もうとする人、すでに歩んでいる人の励みになれば嬉しいです。

菩提心という宝物

菩提心とは、一切衆生の苦しみを取り除きたいと願うことから生じる。

世の中にはいろんな奉仕の形があるが、例えば食べ物は、一度与えても半日の命を繋ぐだけ。

住居や衣服を与えたり、お金を与えたり、場合によっては教育を与えることもあるけれど、それらを本質的な救済とは考えない。

そうではなく、もう本質的な苦しみの原因を取り除くしかない、つまり衆生を解脱させるしかない、そういう心が、菩提心の中心にある。

 

じゃあどうすれば衆生を悟らせることができるのか?

まずは自分がブッダとなり完全な覚醒を得なければ、他人を悟らせることなんてできない。

その初願を、発菩提心という。

 

大乗仏教はその見解と願望をベースに成り立っている。

上座仏教にこの菩提心の概念はないが、金剛乗、つまり密教にも大乗と同じ理念が通っている。

人間、自分のためよりも人のための方が力が湧いてくるもので、この菩提心も、同じような理由からも上座よりも優れていると言われている。

上座仏教はなるべく世俗との関係を持たない生活を推奨するが、大乗の道では積極的にとは言わずも、そもそも衆生救済が目的なのだから、世間と関わることを大切にしている。

しかし大乗の修行者の実際的な問題として、例えば僧院に籠って勉強ばかりしている人が出てきたり、あるいは世間に出たけれどいろんな理由で全然修行が進まないという事態が起こる。

そこで編み出されたのが密教で、ヨーガのエネルギー的修行のアプローチを取り入れた結果、速やかに心の本性に近づく体験をおさめつつも、同時に衆生救済に取り組む方法として発展していった。

 

宗教者に対する尊敬の薄い現代の環境の中で、上座的な修行者になる人は稀であると思われる。

実際日本では仏教が大乗思想に基づいたものであり、働かないと生活できない社会制度になっている。

世間に触れずに生活することはほとんど現実的ではなく、つまり我々が宗教的であり続ける条件として、菩提心が前提になければならない環境に現代はあるということである。

 

しかもエネルギー的にもかなり低い時代になりつつある以上、我々修行者は、神、至高者への帰依による祝福に頼るほか、ヨーガなどの行法によって常にエネルギーを高めていなければならないと思う。

上から引っ張ってもらい、自分も下がらないように一生懸命上昇しようとする努力をしないと、本当の意味で他人のためになろうとする菩提心を実現するのは難しい。

 

私も未だ、人に悟りに向かわせる知恵も力もないので、日々努力している。

菩提心はその道なき道の目印でもあり、そもそも努力しようと奮起する原動力であるという意味で、正しく宝物だと感じている。

 

菩提心は、修行のどんなステージにいる人でも持つことができる。

私も実際、その言葉も概念も知らなかった10代の時に、「俺がみんなの分まで修行してやる、自分に会えばその人が癒されるレベルに自分がなる!」と一人散歩をしながらふと考えたことがあった。

その時はあまり気にしなかったが、菩提心という概念を知って、あの発願は正しかったのだと気づいた。

そう思うと、この類の熱意は仏教に限らず、クリスチャンの人でも他の宗教の人でも思うことなのかもしれない。