あるヨギのブログ

実際の修行の体験に基づいて、思ったことを綴ります。同じ道をこれから歩もうとする人、すでに歩んでいる人の励みになれば嬉しいです。

しもべのバクティ

しもべは、忠誠を誓った主人の為に全てを捧げる。

 

捧げるからには、仕事内容も、報酬も、労働時間も、全てお任せ。

 

何に対しても異論を挟むことは、良いしもべのすることではない。

 

ライフワークバランス。

 

しもべのバクティを行うヨーギは、そんなものを笑い飛ばし、24時間365日、主に奉仕する。

 

もちろん、休みは必要かもしれない。

 

でもそれは、より良い奉仕のための準備期間だと考えなくちゃいけない。

 

瞑想を行うとしても、それは主の御言葉によりよく耳を澄まし、より正確に主のお考えを汲み取るためのもの。

 

最愛の至高者のしもべとして生きる我らに、自分のための時間などない。

 

多くの世人は、「私」を中心に生きている。

 

しかし我らは「あなた」を中心に生きている。

 

 

その違いが、人としての生き方のとても大きな違いを生み出す。

 

何故、こんなにも主人に対して尽くすのか?

 

それは、主に尽くす事だけが、我々の幸せであることに気付いてしまったから。

 

しもべのバクティは、そんな気付いてしまった魂だけの特権みたいなものなのだ。

たった一つのすごい教え

10代の頃から人生をかけて学んできた。

 

光の音に導かれ、時には輝かしい高揚の中を歩いたが、基本的には深く寒い谷間を歩いてきた修行人生。

 

例えばそんな私が、かつての純粋に霊的真理を求めて祈っている自分を見ているとする。

 

青年だった私はこう祈っていた。

 

「どうか私に、間違いから遠ざかり、霊的な道をまっすぐに辿るための道をお示しください…!」

 

 

当時の自分の理解力を考慮しなかったとしたら、私はこのように答える。

 

「あなたの人生の基調を、無害性にのみ集中しなさい。それをもってブッダの八聖道を学び、朝昼晩とそのことを集中して観想しなさい」

 

 

この無害性という言葉は、アリス・ベイリーの著作から借用している。

 

あまりにも簡素で、そしてパワフルで、かつ包括的な言葉なので、私はこの言葉をとても気に入っているし、自分自身の生活の規定にしている。

 

無害であることは、やってみるとわかるが”ほんとうに”難しい。

 

人間には肉体、情緒、思考の三体があるばかりか、実生活には実に様々な分野が存在し、それらを同時並行で手がけていく必要がある。

 

ただでさえ複雑な日常において、霊的実践はシンプルでなければならない。

 

無害であることは、身口意の全ての領域で行われなければならない。

 

瞑想も思索も、この無害性に照らし合わせて行われれば十分であるし、正直いってエーテルアストラル体の浄化についても、これ一個で足りてしまうと言ってもいいかもしれない。

 

また、人生の大きな決断についても、無害性を基調にしさえすれば、何の問題もないように思う。

 

もちろん、日常でのやり取りの全てが、この実践一つで事足りる。(本当に!)

 

 

なぜここまで無害であることの実践を推奨するのかというと、魂(我々の感知できるレベルでの神)の性質がこれを基調にしているからである。

 

魂に従うということは、真理のダルマの実践でもあるし、神の意志の遂行でもあるし、よく言われている「本当の自分」の声でもある。

 

力強い思索も、「自分は本当に無害性を実践できているか?もしくはこの無害性は単なる消極的な態度に過ぎないのではないか?」など、きちんと方向性をもって行うことができる。

 

そして私がここまで無害性の実践(八聖道の実践)を勧めるもう一つの理由は、行うとわかるがそれによってエゴが炙り出され、強く反発するのがわかるから。

 

これはある意味、エゴ発見器なのだ笑

 

 

無害であることは、他人にはもちろん、自分より等級の低い生命様相もそうだし、ひいては自分自身にまで当てはめる。

 

むしろ他に対して真に無害であれた時、自分に対しても自動的に無害であるばかりか、大きな力を与えることになる、というのは、皆さんも自身で経験してみてほしい。

 

実践の中で、どうしても無害であれない相手というのが出てきたら、それは祝福だと考えたい。

 

いろんな理由からその人を思考のレベルでも実際のレベルでも攻撃せざるを得ないと考えるかもしれないが、そうしてエゴが暴れて仕方ない時は、聖なる存在に助けを求めたら、いいかもしれない。

世界が聖なるものになるために

私が霊的真理の探究に目覚めた当初、混乱したことがいくつかあったが、そのうちの一つに、現象世界に対する解釈があった。

 

世界は美しいものだと語る人と、世界は無常で儚く、価値のないものだと語る人がいた。

 

多くの探求者が同じ箇所でつまづいているのではないか。

 

最近このことについて一つの見解に辿り着いたので、共有したい。

 

まず、お釈迦様の第一見解として、世界は苦であるというのは基本的な事実として存在する。

 

お釈迦様の見解だから、というよりも、確かに事実としてこの世が苦であることに間違いはない。

 

そしてお釈迦様の四諦の教えにあるように、苦は無明と渇愛によって生じると述べられている。

 

つまり、世界が苦であるというよりも、我々の世界を知覚する心においてこそ苦の原因があるということであり、世界そのものが苦の原因であるわけではなく、この世界に対する「無明」と「渇愛」によってそれは生じる、と考える方が正しいように思う。

 

すると世界そのものは善もなく悪もないニュートラルな”現象”であり、我々がそこに何を見るのかが、世界が何であるのかについての見解を決めるといっても過言ではないように思える。

 

 

修行が進むとわかることがある。

 

世界という現象に対する執着と執着にまつわる苦しみが脱落していくのと同時に、世界が聖なるものに徐々に変容していく。

 

世界は相変わらず、苦楽の日常を繰り返している。むしろ世界情勢、日本国内の状況としても、悪化しつつある。

 

しかし私の体感としては、人は優しく、太陽は美しく聖なる輝きを放ち、肉体は親しい友となりつつある。

 

人も太陽も肉体も、昔と比べて何かが変わったわけではないし、むしろ過去と比較してそれらは着実に老い、朽ちてゆく方向に進みつつある。

 

何も原子の配列が変わったわけでもなく、それは以前のまま変わらずそこにあるに過ぎない。

 

だから客観的な物質としてこれらが変わったわけではなくて、それを知覚する私の心に変化が生じているということになる。

 

私は今日、見上げた太陽がなんとも言えない聖なる輝きを放っていることに気づいた。

 

そこに見えたものは、世界という決まりきった単調でつまらない、残酷な無常の法則の諸々を超えた、まさに自分の心の本性への扉を感じさせる輝きであった。

 

だから太陽を拝んだ。

 

太陽が神聖だからではなく、太陽という現象と私との関係に、大きな変化が生じたから。

 

太陽の実利的な価値に対してではなく、”高貴で神聖な私自身”への挨拶として、太陽の輝きを感じたから。

 

確かに、世界そのものがその我々の聖なる本性を象徴する形をまとえば素晴らしい。

 

世に言うユートピアが、本当にあれば素晴らしい。

 

しかしそれ以前に、我々の心の浄化がなければ、なんの意味もない。

 

 

形のビジョンにこだわるな。

それよりも、真我のビジョンにこそこだわれ。

己の中で真理のダルマが完全に顕現することのみにこだわれ。

全てのブッダや菩薩方、キリストに対して、心と体と習慣の全てを費やして礼拝を繰り返せ。

 

己を捨て、自分よりも隣人の必要こそ拾え。

 

そうすれば、世界は聖なるものに変容する。

世界は、あなたの心のレンズを通してしか見えないのだから。

真の対等性

人は皆対等である。

 

教養と知性があって、この事に反対する人はいないだろう。

 

しかし理屈や知性を超えた、実相における対等性を認識するのは難しい。

 

それは心を浄化して、心の曇りを取らないと見えてこない。

 

肉眼を越えた視覚は、心のレンズでしか捉えることができないんだ。

 

この実相の把握は、我々に真の強さの感覚をもたらし、ひいては人間関係についての基本的な常識を覆す。

 

肉体をベースにした次元での理解は吹き飛んでしまう。

 

言葉にするとありきたりになってしまうが、大海の水飛沫を自分と思い込むのをやめ、自分は不可欠な部分の総和たる海の一部として存在することを受け入れる事に例えられるかもしれない。

チャネリングの是非

解脱、本当の自己との合一、真理を求める修行者にとって、チャネリングは魅力的なものではあるが、あまりお勧めしないのが私の見解となる。

 

なぜなら、つながる多くが低級霊だから。

 

たとえばよくある現世利益の質問に対して答えるのは、ほとんど動物霊などの低級霊。

 

当たり前である。

 

高級霊は、物質的ものが幻想だと見抜いている。

 

輪廻から引き揚げたいという菩薩の願いを持ちながら、そこに留めておく事になる願いに反応することはない。

 

本当の霊との違いを語ることは難しいが、私の経験からいうと、本当の霊は内側から語る。

 

自分よりも自分の中、ハートの深い部分から、疑いようもない威厳と、聞く者を安らがせる声でハッキリと語る。

 

対してその辺の霊は、頭を通して語るように思われる。

 

個人的な波長と重なった想念が、引き下ろされるのではないかと感じる。

 

まあその辺の霊といっても、人間よりは高度な霊体であることも多く、我々に役立つことを愛をもって語りかけてくる存在もいる。

 

しかしどうせなら、高級霊と繋がるべきと思うが、いかがだろうか。

 

ただ高級霊といえど、我々の自我が反発することは避けられない。

 

私も"彼"の声を聴くことはおろか、自分の中に自分よりも自分である存在がいることが、最初は怖いと感じた。

 

自分が侵略されるような感覚さえあった。

 

しかし、彼は真我そのものなのだ。

 

逆に普段私が自分と勘違いしている自我こそが侵略者であり、異邦人なのだ。

 

みなさんにも、是非この観点から一度、チャネリングの是非について考えてもらいたい。

真理との縁がない人たちからの恩恵

私は修行者だ。

ブッダやキリストの教えがこの世の中で最もクールなものだと思っているし、逆に世俗的なことには、周りが呆れるくらいほとんど関心がない(笑)

一方、大多数の人たちは、私の逆ではないかと思う。

世俗的なことで経済もメディアも回っているし、スピリチュアルだって、現世利益をちらつかせるからみんな集まってくる。

美味しいものや美しい景色、理想的な恋人や仲睦まじい家族、健康、友人、自己実現

当然そういったものが悪いわけではないけれど、私はそれらでは到底満足できない体になってしまった(笑)

 

とはいえ、真理の道に出会うまでの18年間は、そう言った世俗の価値観の中にどっぷり浸かっていたし、それになんの疑問も感じなかった。

 

実際多くの人たちは、まだ真理との縁がない。

だからそういった人たちを無理矢理その道に引き入れるのは、ちょっと違う。

彼らは現状で満足している。

修行者からしたら、「こんな変な世界で満足できるなんてどうかしてる!」と思うかもしれないが、修行者になれる人の持つバックグラウンドを、彼らはもっていなかったりする。

修行者だって、過去に真理と縁のない転生を何度も繰り返したからこそ、今生でダルマの実践という文字通り”有難い”課題を得られている。

こういうわけで、未だ真理との縁がない人については、特に彼らに対してなんとかしてやろうと思う必要はない。

もしくは、本当は魂のレベルも高くて真理に巡り合ってもおかしくないが、別のミッションがあって、あえて世俗的世界の中で活動している人たちもいるらしい。

だから他人については、神々にお任せしてさえいればOKだと思う。

もちろん、そういうことに敏感に反応する人に対しては、その教えの素晴らしさや価値について、説明した方がお互いのためになるから、積極的にそうしたい。

 

また別の角度から考えれば、真理と縁がない人たちから、私たち修行者が恩恵を受けていることが見えてくる。

修行者というのは、社会を運営していく上であまり重要な地位に就かないことが多いと思う。どちらかといえば、大勢の真理との縁のない人たちに支えられて修行をすることになる。

例えばこのブログもそう。私一人ではネットインフラも作れないし、こうしたプログラムを組むこともできない。

生活・交通・通信インフラも、経済も政治も外交も・・・

我々はそうした見えない恩恵を日々教授しながら、つまりお布施を受けながら生きていると考えれば、謙虚な気持ちになれると思う。

 

それに、根本的な存在論として、私がいるのは、彼らが完全な存在だから。

浄化の道に入ると人生が大変になる

私は人に言わせれば、かなり波瀾万丈な人生を歩んできているようだ。

 

確かに他の一般的な人と比べたら、それは恵まれた部分もあったが、トータルで見たらかなり不安定な人生を送っている。

 

この不安定さを自分の心のせいにしたこともあった。

 

自分がダメだから現象もこうなるのだと思わないとやっていけないことも多々あった。

 

しかし全てはカルマの法則に依存する。

 

現象はもちろん、それを引き起こす行動、行動を引き起こす選択的思考、そして知覚。

 

これらの全てがカルマの法則に支配されている訳だから、これは自分の過去の犯した悪業の結果である。

 

修行の道に入り、カルマの浄化の道に入るということは、普通の人の何倍ものスピードで浄化の道を進むことになる。

 

だから良いことも悪いことも、どんどん早いスピードで流れてくる。

 

まるでベルトコンベアーのように。

 

そしてもう一つ、私の感じ方を付け加えるとしたら、天界が我々を見ていて、「あいつやる気になったな、よし!」と喜びながらその人本人のカルマをどんどん与えてくるように感じる。

 

我々はそれに苦しむ訳だけど、天界ではそれを喜んでいる(笑)

 

だって人生の目的はカルマの浄化にある訳だから。

 

しかし天界はただのSではない。

 

我々が何を与えれば喜ぶのかを知っていて、ちゃんとアメも用意している(笑)

 

例えば私の場合、生きていくための仕事には興味がない。

 

すると天界は、私にそういう労働はしなくてもよい環境を与えてくれた。

 

普通は家族がいて子供がいたらあり得ないことだが、なぜかそれで回っている。(もちろん、個人的な仕事はちょこっとしているけども)

 

同時にたくさんのムチも与えてくれる訳だが、これがアメとムチのわかりやすい実例かも知れない。

 

とはいえ、やはり辛いことの方が多いかも知れない。

 

だからこの、自分の汚れを急速に浄化する道から耐えきれずに脱落してしまう人も多い。

 

私にも同じような経験があるからその気持ちは本当によくわかるけども、そういう時、正しい念正智が足りない。つまり正しい教えのインプットが足らないのだ。

 

真理の片鱗を、世界、そして自我という仮初の自己を正しく見つめれば、修行しない理由がそもそもない。

 

それを何か理由をつけて逃げてしまうのは、神への信頼が足らないし、まだまだこの世界も捨てたもんじゃないと心のどこかで思っているから。

 

これはある意味洗脳じみている気もするが、自我そのものが強烈な洗脳であり、アメリカと日本以上の不平等条約であることを忘れてはならない。

 

自我に救いを求めることで、あなたはほんの僅かなチリと、死を受け取る。それと引き換えに永遠の命と、尽きることのないパワーと全能を手放して。

 

このことをよく、心に刻み込みたい。

 

修行の道は大変だが、そもそもこの世界そのものが地獄のような場所なのだ。

 

世界には決して悪くない楽もあるように見えるが、それだって本当は苦でしかないのだ。

 

この世界の楽を求めるということは、同時に苦も受け入れるということだが、この世界の最高の楽と最高の苦は明らかに釣り合わないことをよく考えた方が良い。

 

地獄を犠牲にして天国を手にしようとするこの情熱を、夢見がちだと嘲笑って決して軽んじてはならない。