あるヨギのブログ

ヨガ、仏教、奇跡講座(ACIM)など、真理を愛し真理に生きるためのノート。長野県のまんなかより

あるもの、ないもの

f:id:yogi-blog:20261103211305j:image

3歳の娘が僕にこういった

 

「なんでテレビを消さなかったの!」

 

一緒に風呂に入ろうと誘ったのにテレビ見てて来なくて、後で風呂から呼んだら来たときのひと言

 

「いや、こっちは風呂入ってるんだしテレビ消せるわけないじゃん…」

というツッコミはさておき

 

これは凄く分かりやすいなと

 

というのも、娘はその場にはないものを見ているから不平不満が出た

 

僕たちは誰でもそうだけど、ないものを見たときにだけ心の平安が損なわれる

 

つまり無明、無知、幻想の中に溺れているときにだけ苦しみが生じる

 

逆にその場にあったものといえば、誘ってくれたことと、風呂に行けば温かいお湯があるという事実

 

ある物に目を向けてさえいれば人は自然と感謝するし、満足するもの

 

思考はここにきてはじめて鎮まることをおぼえる

 

神への愛は、すでに与えられている事実に目をひらく度に深まる

 

この真実はとても単純だけれども、繊細で奥深いものでもある

クリシュナムルティと星の教団

f:id:yogi-blog:20261103184107j:image

昔、クリシュナムルティの本はなんか理屈っぽくてよくわからなかった

 

けれど今は、おおよそわかるようになった

 

それに彼は昔神智学協会のトップに祀り上げられていた存在だと知って、彼の言葉の背景が掴めた気がした

 

宗教って基本、縛られたい人のためのものなんだよね

 

やりたい人は当然やればいいことだし、それを批判しようとは思わないけれど、

 

じゃあこれが自由か、真理かって言われると、僕はハッキリNOと言いたい

 

最初にそれを掴んだ人は確かに真理の欠片を掴んだのかもしれない

 

しかしそれが組織化されると、もう俗物もいいところ

 

この事を知ってか、クリシュナムルティが星の教団を解散するときの演説で、悪魔の喩えを出している

 

内容については調べてみてね

 

真理って他者に献身を求めるものなどではないし、それはさ、宇宙が上手くいくっていう信頼がないからこそ、組織化して、特定の物事を成そうとするんじゃないかな

 

世間では聖なるものとされているものの中には、悪魔がちゃんと準備して構えている

 

むしろ聖なるものっていう括りがさ、違うんだよね、僕にとっては

 

もう、ここにいるだけでいいじゃん

 

霊的知識なんてなくたっていいじゃん

 

いま目の前にあることだけでなんで満足できないの?

 

いま自分に与えられている恩寵は、僕たちの器にはとても入り切らないものだと早く気が付かんと

 

今を注意深く観察するだけで、た~くさんの恵みや気付きがあるはずだよ

 

そうした謙虚さがあってはじめて、知恵や勇気や清らかな行為が生まれるんじゃないかな

 

ありがとう、ごめんなさい、あとは黙ってやるべき事を実行

 

この3つだよね

 

それだけで足りる

 

だから娘にもそれだけを教えてる

やるんじゃなくて、オーダーを受けるかどうか

f:id:yogi-blog:20261101123852j:image

 

魂は最初からわかってる

 

全てはすでにシナリオができている

 

その受け方次第で、

 

僕たちの人生は神の差配の通りに行くか、

 

或いはそこから逸脱した流れになるのかが決まるんじゃないだろうか

 

最近、このように考えてるようになった

 

前までは、自分で選んで自分でやっている気がしていた

 

世間の常識もそうだからね

 

けれど最近は逆で、

 

宇宙というか、人生からオーダーされたものを受けるかどうかっていう選択肢しかないような気がしている

 

これは受動的ではあるが、

 

自由意志によるもの

 

表向きにはめっちゃ積極的に見えると思う

 

だって宇宙というのはスケールがでかいし、

 

その物差しでオーダーを出してくるからね

 

 

逆に、過去の自分含め多くの人が、

 

そのオーダーをみて見ぬふりして

 

自分の可能性と幸福への感度に蓋をしているんじゃないかって思うよ

 

#リーラー #バクティ・ヨーガ #自由意志 

神の流れ

 

f:id:yogi-blog:20261030160145j:image

まじで運が良すぎる

神は私を愛して止まない

けれどここでいう私って、みんなのことなんだよね

 

つまり、僕を通してみんなの幸福になるように物事が回ってる

 

まあ、個人的な願望なんて味気なさすぎてもう要らないんだけどね

 

平らに歩くようになったら、まっすぐその場所に行けた

 

ほんの僅かの献身で、神は私を、

溢れる富を流す経路にしてくれる

 

人生確変モードは、未だ継続中…

聖書の真偽をどこで見極めるか

f:id:yogi-blog:20261024155633j:image

本物の中に多くの偽物が混ざる聖書

 

その中で真贋を見極めるのに、

 

僕ならその文章に脅しが含まれているか否かで判断する

 

凄くシンプル

 

脅しがわずかでも含まれていたら、それは後のつけ足し

 

イエスの言葉じゃない

 

脅しには、具体的な損失を知覚させることで相手の行動をコントロールしようとする欲が潜んでいる

 

それは不安と欠乏の信念であって、

 

満足と知恵と自信の愛のそれではない

 

真理という事実を扱うのに、咎めや非難になんの用があるのか?

 

無知蒙昧を扱うのに、それを今更攻撃して何になるのか?

 

罪を犯せばどうなるかなんて、言われるまでもなくその場に広がってる事実で事足りるでしょう

 

多くの宗教に没入する人は、正しいことを知っている自分たちとその他の人達を分けて考える

 

イエスはじめ聖者方はその心の中の差をとれと言ってるのに

 

汝自身を知れとずーっと言ってるのに

 

 

墓参りは必要か

したければすればいいとおもうよ。僕は必要を感じないけど。

 

 

また、これ以上論じる必要もないけれど、一応思いの端を切り取ってみる。

 

・子孫から関心や施しを受けないとわるさするって、餓鬼のやることじゃん

・先祖への感謝っていつでもどこでもできるし届くよね

・肉体を持っている間は生きることそのものが貢献だし、それが善い行いであれば自然と先祖も報われるってもんだよね

・わが子にあれくれこれしろって、健全にわが子を愛する親だったら言わないよね。異常な餓鬼性の強い親だけがわが子に要求するし、そういう人間とは、親だろうと何だろうと関わるなってのが基本と思う

・そもそも魂(真我)って限定を受けない

そもそも自分のイメージする先祖って主観でしかない。つまり幻想

・先祖を愛するなら、先祖の残してくれたこの肉体や受け継いだ文化を今ここで大切にするよ。今感じて、手で触れるものに集中する

・先祖の根性が悪くて癒される必要があるなら、今自分が正しい生き方をしてそれを示すだけ

・必要なのは先祖崇拝ではなく、その連綿と続いてきた系譜の中に流れる神の生命への尊敬と愛。

 

僕は先祖という枠ではなくて、全体を一つとしてみてる

それに死んだじいちゃんばあちゃんは好きだし、感謝してる

ばあちゃんは死んだあとに夢の中ではっきりとあいさつしたし、

じいちゃんは葬式の時に「お前の子供は来てないのか」と言われた

でもね、先祖崇拝という強迫観念の枠の中でこの二人を捉えたくないんだよね

もっと広い大空のなかで、自由に、ありのまま、透明なものとして出会いたいし、

触れ合いたいとおもう

孤独が理解できなくて孤独

f:id:yogi-blog:20261020220950j:image

今夜は、騙されて教会に連れてこられた笑

悪意や他意のない人を使って、神様はまことに策士だね笑

 

 

そこでみんなで歌を歌ってたんだけど、

「暗闇で一人孤独で辛いときでも…」

みたいなフレーズが繰り返された

 

なんとなくわかるよね

 

辛いことがあるけれど、たくさんの神様からの恵みあるから…

一人辛いときでも、イエス様がそばにいるから…的なやつ

 

これを聴いてて、こう感じた

 

「ああ、僕はもうこの感覚全く共有できないな」

 

というのも、

例えば子育て辛いなーとか

親戚を頼ることもなく一人で全てをやってて孤独だなーとか

身体しんどいなーとか

思うことはあるんだけど、なんだろう、辛いと感じることは日々あるんだけど、本音では辛くない笑

 

あとは孤独という感覚が全くないので、もうあの、宗教的な感傷には浸れない

 

 

これはなんか捉え方によっては、

「俺はみんなと違ってそういうのもう超えたから」

と受け取られるんだろうけど、

 

そうじゃない

 

これはこれで孤独なんだよね笑

 

周囲の人たちと信念を共有できないから、僕からしたらみんなの感覚はちょっと理解できないし、

 

反対にみんなからしたら、

僕の日々や自分への感じ方は意味不明というか、強がってる風にしか捉えられないんじゃないかと思う

 

僕はもう、探してない

上昇もなければ下降もない

神への接近とは、単に思い出すだけ

思い上がりの引き算はあっても足し算はない

 

そんな感じ