たった一つのすごい教え
10代の頃から人生をかけて学んできた。
光の音に導かれ、時には輝かしい高揚の中を歩いたが、基本的には深く寒い谷間を歩いてきた修行人生。
例えばそんな私が、かつての純粋に霊的真理を求めて祈っている自分を見ているとする。
青年だった私はこう祈っていた。
「どうか私に、間違いから遠ざかり、霊的な道をまっすぐに辿るための道をお示しください…!」
当時の自分の理解力を考慮しなかったとしたら、私はこのように答える。
「あなたの人生の基調を、無害性にのみ集中しなさい。それをもってブッダの八聖道を学び、朝昼晩とそのことを集中して観想しなさい」
この無害性という言葉は、アリス・ベイリーの著作から借用している。
あまりにも簡素で、そしてパワフルで、かつ包括的な言葉なので、私はこの言葉をとても気に入っているし、自分自身の生活の規定にしている。
無害であることは、やってみるとわかるが”ほんとうに”難しい。
人間には肉体、情緒、思考の三体があるばかりか、実生活には実に様々な分野が存在し、それらを同時並行で手がけていく必要がある。
ただでさえ複雑な日常において、霊的実践はシンプルでなければならない。
無害であることは、身口意の全ての領域で行われなければならない。
瞑想も思索も、この無害性に照らし合わせて行われれば十分であるし、正直いってエーテルとアストラル体の浄化についても、これ一個で足りてしまうと言ってもいいかもしれない。
また、人生の大きな決断についても、無害性を基調にしさえすれば、何の問題もないように思う。
もちろん、日常でのやり取りの全てが、この実践一つで事足りる。(本当に!)
なぜここまで無害であることの実践を推奨するのかというと、魂(我々の感知できるレベルでの神)の性質がこれを基調にしているからである。
魂に従うということは、真理のダルマの実践でもあるし、神の意志の遂行でもあるし、よく言われている「本当の自分」の声でもある。
力強い思索も、「自分は本当に無害性を実践できているか?もしくはこの無害性は単なる消極的な態度に過ぎないのではないか?」など、きちんと方向性をもって行うことができる。
そして私がここまで無害性の実践(八聖道の実践)を勧めるもう一つの理由は、行うとわかるがそれによってエゴが炙り出され、強く反発するのがわかるから。
これはある意味、エゴ発見器なのだ笑
無害であることは、他人にはもちろん、自分より等級の低い生命様相もそうだし、ひいては自分自身にまで当てはめる。
むしろ他に対して真に無害であれた時、自分に対しても自動的に無害であるばかりか、大きな力を与えることになる、というのは、皆さんも自身で経験してみてほしい。
実践の中で、どうしても無害であれない相手というのが出てきたら、それは祝福だと考えたい。
いろんな理由からその人を思考のレベルでも実際のレベルでも攻撃せざるを得ないと考えるかもしれないが、そうしてエゴが暴れて仕方ない時は、聖なる存在に助けを求めたら、いいかもしれない。