世界が聖なるものになるために
私が霊的真理の探究に目覚めた当初、混乱したことがいくつかあったが、そのうちの一つに、現象世界に対する解釈があった。
世界は美しいものだと語る人と、世界は無常で儚く、価値のないものだと語る人がいた。
多くの探求者が同じ箇所でつまづいているのではないか。
最近このことについて一つの見解に辿り着いたので、共有したい。
まず、お釈迦様の第一見解として、世界は苦であるというのは基本的な事実として存在する。
お釈迦様の見解だから、というよりも、確かに事実としてこの世が苦であることに間違いはない。
そしてお釈迦様の四諦の教えにあるように、苦は無明と渇愛によって生じると述べられている。
つまり、世界が苦であるというよりも、我々の世界を知覚する心においてこそ苦の原因があるということであり、世界そのものが苦の原因であるわけではなく、この世界に対する「無明」と「渇愛」によってそれは生じる、と考える方が正しいように思う。
すると世界そのものは善もなく悪もないニュートラルな”現象”であり、我々がそこに何を見るのかが、世界が何であるのかについての見解を決めるといっても過言ではないように思える。
修行が進むとわかることがある。
世界という現象に対する執着と執着にまつわる苦しみが脱落していくのと同時に、世界が聖なるものに徐々に変容していく。
世界は相変わらず、苦楽の日常を繰り返している。むしろ世界情勢、日本国内の状況としても、悪化しつつある。
しかし私の体感としては、人は優しく、太陽は美しく聖なる輝きを放ち、肉体は親しい友となりつつある。
人も太陽も肉体も、昔と比べて何かが変わったわけではないし、むしろ過去と比較してそれらは着実に老い、朽ちてゆく方向に進みつつある。
何も原子の配列が変わったわけでもなく、それは以前のまま変わらずそこにあるに過ぎない。
だから客観的な物質としてこれらが変わったわけではなくて、それを知覚する私の心に変化が生じているということになる。
私は今日、見上げた太陽がなんとも言えない聖なる輝きを放っていることに気づいた。
そこに見えたものは、世界という決まりきった単調でつまらない、残酷な無常の法則の諸々を超えた、まさに自分の心の本性への扉を感じさせる輝きであった。
だから太陽を拝んだ。
太陽が神聖だからではなく、太陽という現象と私との関係に、大きな変化が生じたから。
太陽の実利的な価値に対してではなく、”高貴で神聖な私自身”への挨拶として、太陽の輝きを感じたから。
確かに、世界そのものがその我々の聖なる本性を象徴する形をまとえば素晴らしい。
世に言うユートピアが、本当にあれば素晴らしい。
しかしそれ以前に、我々の心の浄化がなければ、なんの意味もない。
形のビジョンにこだわるな。
それよりも、真我のビジョンにこそこだわれ。
己の中で真理のダルマが完全に顕現することのみにこだわれ。
全てのブッダや菩薩方、キリストに対して、心と体と習慣の全てを費やして礼拝を繰り返せ。
己を捨て、自分よりも隣人の必要こそ拾え。
そうすれば、世界は聖なるものに変容する。
世界は、あなたの心のレンズを通してしか見えないのだから。