本当の私
私は仕事でカウンセリングをしているが、他の同業者のHPなどを見ていると、「本当の自分」というワードが出てくることがよくある。
結構使い古された言葉で、見ている人も食傷気味になっているんじゃないかと思う。
しかしヨーガ修行などをしていると、本当の自分なんてどこにもないことを知ってしまう日が来る。
だからこういう言葉を見ると、非常に残念な気もするが、しかしこの真実を受け止められる人も少ないように思う。
そもそも”自分”というのは、情報の集積にすぎない。
AIが生成される過程と全く同じで、情報を受け取り、それによってパターンを学習したのが、正しく「私という心」の正体なのだ。
自我は答えのないところで答えを探そうとする。
だから俗にいうスピリチュアルの人などが、「これが本当の私だ!」と言っているのは、ちょっと間違っていることが多いのではないか。
まあ確かに、抑圧していたより深い部分での自分というのはあるけれど、本当の私とは、真我だけだ。
真我は個を超越しているから、言葉にならないし、概念を超越しているから説明もできない。
もちろん、真我を反映したパーソナリティというのはある。しかしそれは真我の”象徴”であって、真の自分そのものではない。
だから聖者が「私」というとき、それが個人としての自分なのか、真我としての私なのかは、かなり曖昧なところがある。混じっている時もあれば、どちらかを意味していることもある。
ちなみに私がたまに仕事として受けているカウンセリングは、私ではない情報の集積を整理する作業のようなものかもしれない。
ちょっとこの説明は学術的ではないけれど、情報の塊、サンスカーラ、カルマの流れを整理して、そこに絡め取られた状態からその人が離れられるように助けてあげることのように思っている。
そうして整理されていくと、時折ではあるが、その人の真我の輝きが一瞬、情報の集積を照らし出し、本人の真理への道をバーンと示すことがある。
私という幻覚を通して、私は「私」へと目覚める。
”怖れへの迂回”を利用して、真我は私を真我へと導く。
菩提心という宝物
菩提心とは、一切衆生の苦しみを取り除きたいと願うことから生じる。
世の中にはいろんな奉仕の形があるが、例えば食べ物は、一度与えても半日の命を繋ぐだけ。
住居や衣服を与えたり、お金を与えたり、場合によっては教育を与えることもあるけれど、それらを本質的な救済とは考えない。
そうではなく、もう本質的な苦しみの原因を取り除くしかない、つまり衆生を解脱させるしかない、そういう心が、菩提心の中心にある。
じゃあどうすれば衆生を悟らせることができるのか?
まずは自分がブッダとなり完全な覚醒を得なければ、他人を悟らせることなんてできない。
その初願を、発菩提心という。
大乗仏教はその見解と願望をベースに成り立っている。
上座仏教にこの菩提心の概念はないが、金剛乗、つまり密教にも大乗と同じ理念が通っている。
人間、自分のためよりも人のための方が力が湧いてくるもので、この菩提心も、同じような理由からも上座よりも優れていると言われている。
上座仏教はなるべく世俗との関係を持たない生活を推奨するが、大乗の道では積極的にとは言わずも、そもそも衆生救済が目的なのだから、世間と関わることを大切にしている。
しかし大乗の修行者の実際的な問題として、例えば僧院に籠って勉強ばかりしている人が出てきたり、あるいは世間に出たけれどいろんな理由で全然修行が進まないという事態が起こる。
そこで編み出されたのが密教で、ヨーガのエネルギー的修行のアプローチを取り入れた結果、速やかに心の本性に近づく体験をおさめつつも、同時に衆生救済に取り組む方法として発展していった。
宗教者に対する尊敬の薄い現代の環境の中で、上座的な修行者になる人は稀であると思われる。
実際日本では仏教が大乗思想に基づいたものであり、働かないと生活できない社会制度になっている。
世間に触れずに生活することはほとんど現実的ではなく、つまり我々が宗教的であり続ける条件として、菩提心が前提になければならない環境に現代はあるということである。
しかもエネルギー的にもかなり低い時代になりつつある以上、我々修行者は、神、至高者への帰依による祝福に頼るほか、ヨーガなどの行法によって常にエネルギーを高めていなければならないと思う。
上から引っ張ってもらい、自分も下がらないように一生懸命上昇しようとする努力をしないと、本当の意味で他人のためになろうとする菩提心を実現するのは難しい。
私も未だ、人に悟りに向かわせる知恵も力もないので、日々努力している。
菩提心はその道なき道の目印でもあり、そもそも努力しようと奮起する原動力であるという意味で、正しく宝物だと感じている。
菩提心は、修行のどんなステージにいる人でも持つことができる。
私も実際、その言葉も概念も知らなかった10代の時に、「俺がみんなの分まで修行してやる、自分に会えばその人が癒されるレベルに自分がなる!」と一人散歩をしながらふと考えたことがあった。
その時はあまり気にしなかったが、菩提心という概念を知って、あの発願は正しかったのだと気づいた。
そう思うと、この類の熱意は仏教に限らず、クリスチャンの人でも他の宗教の人でも思うことなのかもしれない。
カルマを解消する秘策
「公然の秘密」という言葉の通り、より高い境地に生きるための重要な鍵は、その辺でよく見かけることの中に隠れている。
カルマの解消は修行者、道を歩まんとする者にとっては必須課題であり、それは主に「浄化」と言われている。
しかし浄化そのものは「結果」であり、その結果をもたらすのに必要なものこそが、我々において求められる態度であり、動作である。
よく浅いスピリチュアルにはまっている人がことあるごとに「浄化だ」と言って喜んでいるのを見かけるが、あれば浄化ではない。
確かにあらゆる事故や病気には現象化しているという意味で浄化と呼べるかもしれないが、浄化とは結果ではなく原因に対してのみ相応しい言葉であり、つまり心において汚れが取り除かれていないことには、本当の意味で浄化という言葉を使うことはできないと思われる。
本当の浄化は、感謝の中にある。
何に対しても有難いと思う気持ちを持つことで、本当の浄化になる。
どんな災難が起こっても、他人から中傷され、虐げられ、無視されたり馬鹿にされたとしても、それらを例外なく「有難い」と思ってはじめて、浄化が起こる。
感謝のポイントは、それが不平不満と対極にあるということではないだろうか。
感謝しながら不満を持つことなどできない。
そして不満を持つことができないということが暗示しているように、感謝する対象に例外を設けてはならない。なぜなら不平不満とは、「特定の条件であれば私はいくらかマシであるのに」という宣言に他ならないからである。
感謝する対象が選択的であるということは、そのままそれが不平不満を持つ態度であることを示している。
感謝とは愛ということもできる。
一般の人にとって愛は条件付きのものであるが、我々にとって愛は無条件のものである。
つまりそこには、無条件の感謝が同居している。
カルマの解消の根本は、秘策というほどのものではない。
しかし「公然の秘密」という意味では、秘策中の秘策である(笑)
本当に全ての全てに対して感謝することを実践すると、私の言っているカルマの解消の効果が本当にすぐに現れるので、できる人はやってほしい。
カルマの解消には苦しみが伴う。
それは自分がこれまで他人にしてきたことの応報だから。
次々と襲いくる苦難に「ありがとう」とどれだけ本気で言い続けられるか。
ぶたれても、あからさまで理不尽な悪口を言われても、それらの全てが神の愛であると知りたい我々にとって、これは神とのつながりを回復するための訴求的道のりである。
心を綺麗にしなければ、当然幸せなんてない。
自分を本当の意味で幸せにし、かつ同じ幸せを求める人たちにそれを教えたいと思ったら、なおさら取り組まなければならないだろう。
七科三十七道品
上座仏教における、お釈迦様の教え。
この七科三十七道品を支える四諦の教えは以下のような4つのパートに分けられる。
0 四諦
a 苦諦
この世の中にあるもので、悲哀と苦しみに無縁なものはない
b 集諦
苦しみの原因は、渇愛(欠乏から求める心)と無明(根本的無知)から生じる
c 滅諦
苦しみから解放されるためには、渇愛と無明を取り除けば良い
d 道諦
そのための具体的な方法は、八正道、八つの聖なる道を歩むことである。
・四諦からなる正しい見解に基づいて、まずは正しい教えを学ぼう。そしてものの見方を変えよう(正見)
・それと同時に、得られた見解をもとに、自分の思いと、言葉と、行いを正しく変えていこう(正思・正語・正業)
・それによってある程度確信が得られた段階で、自分の全人生をダルマに捧げよう(正命)
・それによって生じるあらゆる煩悩との格闘があるが、怯まず成し遂げよう(正精進)
・精進の前進によって、24時間ダルマから外れない心を持つように訓練しよう(正念)
・これができれば、天からの祝福によって正しい至福のサマーディに入れる(正サマーディ)
それでは、見ていこう。
七科三十七道品
1 四念処
a 身(体)
肉体は不浄物である。そして、私ではない。肉体の中に自分の本質はない。
b 受(5感)
感覚は苦である。感覚における最高の喜びと最高の苦痛は釣り合わない。
c心
心は情報の集まりにすぎない。それは無常であり、拠り所とならない。
d 法(現象)
現象にも実体はない。心の作り出した投影であるにすぎない。
2 四正勤(ししょうごん)
a 今為せる善を為す
b 今為せない善を為せるように努力する
c 今断てる悪を断つ
d 今断てない悪を断てるよう努力する
自己認識の浄化によってこの過程は前進する。自己認識できている領域、できていない領域の中に、大きな前進のきっかけになるポイントが隠れいている。
3 四如意足
瞑想するためのそれぞれのアプローチ法
a 欲
悟りを達成したい。真理の核心を掴みたい。という欲
b 勤(努力)
努力のパワーを使う
c 心
精神集中。
d 観(観察)
思索的分析と観察。
あるいは神通力を得るための方法として捉えられる。
またあるいは、六波羅蜜的な段階の推移としても捉えられる。欲求を持ち、努力し、心を観察しより高い境地に進む。
PDCAにも通じる。
4 五根五力
全体的な修行プロセスを指す。根は潜在的な力を意味し、努力によって可能性に過ぎなかった潜在力を実際の力として発現させる。
a 信(シュラッダー)
b精進
c 念(スムリティ)
集中力 他のことは何も見えないくらいにならないといけない。
d サマーディー(深い瞑想)
何をしていても瞑想状態になれるように。
e 智慧
最終的に般若の知恵を得る。力とする。
5 七覚支
a 念
正しい念を高めていく
b 択法
場面に応じた法を選択する。どんな振る舞いが役立つのか。自分に対しても。
c 精進
自分の選んだ法を努力
d 喜
段階的ステージ。クンダリニーヨガのプロセスに類似
e 軽安
体が軽くなる。 喜と軽安は修行プロセスで生じる。
f サマーディ
以上のプロセスを経てサマーディへ
g 捨
救済のために一切を捨て、ブッダとなる。神々とならない。
6 八聖道
a 正見
見解の全てを真理と入れ替える。正しい教えにより、自分や他者、人生や世界をどのように捉えたら良いのかを完全にインプットする。
b 正思
c 正語
d 正業
e 正命
正しい人生を歩む決意。
f 正精進
正命に伴い自分の悪業が噴出するので、戦う。
g 正念
自分が道から外れてないかのチェック
h 正サマーディ
最後のサマーディ(三昧)を正しいものにするために、これまでの修行がある。
その後に続くものとして、
i 正解脱
カルマの輪から抜け出す。解放された状態。
j 解脱智見
輪廻の外側から世界を眺める。解放されたことをよく理解している。
信を鍛える
例えば何か稽古事を習うときに、先生の言うことを素直に聞ける人と、自分のこだわりとかプライドがあって言うことが聞けない人がいる。
この違いは、そのまま上達と理解のペースの違いとなる。
例外的に、先生よりも生徒の方が良くそのことについて知っている、と言うこともあるかもしれないが、だったらそもそもその先生につこうと思うのが間違い。
修行においても同じことが言える。
修行は基本的に、体型立てられた聖典に従って行われるが、まずはその教えに対する尊敬と信がなければそれをやろうとは思わない。
しかし教えへの信頼は、最初はほんのちょっとしたものだし、最初はばーっと勢いよく燃え上がっていたとしても、杉の薪のように、すぐにその炎はおさまってしまう。
だから修行においては、例えば聖典を読んだり、実際にそれについて思索を繰り返すことで、どんどん新しい薪をくべて、その信頼の熱を高める努力を繰り返す。
そうしてだんだん、「ああ、この教えは本当の本当に真理を言っているんだなあ」というのが、体験レベルで理解されてくる。
それと同時に、自分のこだわりとかプライドが見えてくるから、それらを削ぎ落とす作業が並行する。
こうして修行者は信を鍛え、強めていく。
実際修行の核となるのは、この信をひたすらに高めていくことではないかと思うことがある。そして多分それで正しい。
だから我々修行者というのは、最初は先生の言うことを全然聞かないめんどくさいタイプの生徒さんなんだ(笑)
それが苦しんだり悩んだりしながら、ブッダや至高者の恩寵によって徐々に素直になっていって、最終的に先生の言うことを100%聞くことができたら、その時点である大きな達成を得るのだと思う。
我々には信がない、もしくは足らない。
でもどこかでそれが本当だと知っているから、毎日同じことを繰り返し修習する。
不思議だよね。
信じてないのに信じてるから、苦しくてもその教えについて行こうとする。
それが我々修行者なんだ。
その気になったらやってみることの修行的意味
こだわらないという観点から、やってみたいと思ったことはしのごの考えずにどんどんやってみたら良いと思う。
かくいう私は、割と考えてしまうタイプで、石橋を叩いて渡らないことが多かった。
そうなるとカルマの流れがどんどん滞って、魂にフラストレーションが溜まっていく。
その場にいつまでも止まって、経験しなければならないこと、落とさなければならないカルマがそのままになってしまう。
これでは人生が勿体無いし、修行という意味でも、どんどん心を浄化してカルマを落としたいわけだから、やってみたいと思ったことはどんどんやってしまった方がいい。
なんで行動に踏み切れないのかというと、おそらく結果に期待しすぎているからだと思う。
失敗したらどうしよう、というのはまさにそれだ。結果にこだわっている。
修行者は結果にこだわらない。
当然一生懸命やるものの、失敗にも成功にもこだわらない。
無意味な世界の無意味な行動は、どんどんこなしてしまうのが良い。
無意味なんだからやらなくても同じ、というのは残念ながら違う。
完全な覚醒を得た人にとってはそうかも知れないが、行為から自由になれていない私たちにとって、行為から自由になるためには、徹底して行為しなければならない。バガヴァットギータにも同じようなところがある。
そうして行為しまくっていると(行為そのものが目的ではない)、段々と不要なものが削ぎ落ちていくのがわかる。
修行と関係ないものが徐々に人生から勝手に脱落していく。
言うなれば、修行だって行為なのだ。
他のことで全力でできない人は、修行も全力でできない。
全力で修行に取り組みたいと思う人は、まず自分の目の前のことに全力で取り組むといいかも知れない。
それが瞑想となり、本格的な修行を前にしても、全力でぶち当たることができるように思う。
これが、カルマヨーガに通じるのではないかと思っている。
修行者の注意点
自分自身の痛い経験も踏まえて、修行者に割と共通する注意点を3つに絞って述べたい。
【大項目】修行の目的は自分の心を浄化すること
これは最も基本的なこと。
基本的であるがゆえにそれは忘れられやすく、むしろそれを常に覚えておくことそのものが良い修行になる。
そのことを忘れ、見えなくなってしまっていることに気づき、それを再び発見しようと努めるのが、修行の動機である。
現象的なものへの執着をなくすのは、それらが我々の本性の自覚を妨げるからだ。
ここにポイントの一つがあり、現象的なものを否定するのではなく、それに対する執着に気づき、それを手放すことにある。
そして神に帰依することは、我々が暗闇に彷徨い出すことを防ぎ、自分の本性に立ちかえるための燈明である。
言うなれば、 「聖者がたの説かれた法を遵守せよ」 これに尽きる。
これを実践するのに役立ついくつかの注意点がある
・他人に対しては常に純粋な愛のみで接すること
隣人を愛せよ、とキリストは説かれた。キリストとは、我々の心の中の正しい部分、正気を保つ部分である。
愛せよ、ということについて深く瞑想しよう。
そして、小賢しいことを考えたがる自分を深い思索によって抑制し、潔くシンプルに実践しよう。
・他人を変えようとしてはならない
聖者がたは、他者を変えるために行動しただろうか?
このことについてもよく瞑想すべきである。
世の中では、人知れず解脱して神の愛の中に溶けていった人たちが何人もいる。
それによって人類が啓蒙されることはあっても、彼らが強く世界を変えるために働きかけただろうか?
布施の完成を果たした覚者がたが何人もおられるのに、世界は良くなるどころか、悪化しているように見える。
このことについて、よく瞑想したい。
・物質についてこだわらない
冒頭にも述べたが、物質性は否定されるのではなく、それにまつわるあらゆる欲望や嫌悪から自由になるように努めるべきである。
よく考えてみると、物質をいくら嫌悪したところで、肉体は一生付きまとう。
どこにいっても目の前には必ずモノがある。
それを嫌悪したところで何の意味もないことは、よく自分のマインドに薫習する必要があるかもしれない。
こだわらないことの身近なこととして、衣服や食べ物、住む場所や仕事などがある。
それぞれに好き嫌いがあるものだが、輪廻の牢獄からの脱出を望む人において、鉄格子の色や形などにこだわるのは適当ではない。
このさじ加減は本人に一任する以外ないので、外見や持ち物でその人を判断し切ることは難しい。