カルマを解消する秘策
「公然の秘密」という言葉の通り、より高い境地に生きるための重要な鍵は、その辺でよく見かけることの中に隠れている。
カルマの解消は修行者、道を歩まんとする者にとっては必須課題であり、それは主に「浄化」と言われている。
しかし浄化そのものは「結果」であり、その結果をもたらすのに必要なものこそが、我々において求められる態度であり、動作である。
よく浅いスピリチュアルにはまっている人がことあるごとに「浄化だ」と言って喜んでいるのを見かけるが、あれば浄化ではない。
確かにあらゆる事故や病気には現象化しているという意味で浄化と呼べるかもしれないが、浄化とは結果ではなく原因に対してのみ相応しい言葉であり、つまり心において汚れが取り除かれていないことには、本当の意味で浄化という言葉を使うことはできないと思われる。
本当の浄化は、感謝の中にある。
何に対しても有難いと思う気持ちを持つことで、本当の浄化になる。
どんな災難が起こっても、他人から中傷され、虐げられ、無視されたり馬鹿にされたとしても、それらを例外なく「有難い」と思ってはじめて、浄化が起こる。
感謝のポイントは、それが不平不満と対極にあるということではないだろうか。
感謝しながら不満を持つことなどできない。
そして不満を持つことができないということが暗示しているように、感謝する対象に例外を設けてはならない。なぜなら不平不満とは、「特定の条件であれば私はいくらかマシであるのに」という宣言に他ならないからである。
感謝する対象が選択的であるということは、そのままそれが不平不満を持つ態度であることを示している。
感謝とは愛ということもできる。
一般の人にとって愛は条件付きのものであるが、我々にとって愛は無条件のものである。
つまりそこには、無条件の感謝が同居している。
カルマの解消の根本は、秘策というほどのものではない。
しかし「公然の秘密」という意味では、秘策中の秘策である(笑)
本当に全ての全てに対して感謝することを実践すると、私の言っているカルマの解消の効果が本当にすぐに現れるので、できる人はやってほしい。
カルマの解消には苦しみが伴う。
それは自分がこれまで他人にしてきたことの応報だから。
次々と襲いくる苦難に「ありがとう」とどれだけ本気で言い続けられるか。
ぶたれても、あからさまで理不尽な悪口を言われても、それらの全てが神の愛であると知りたい我々にとって、これは神とのつながりを回復するための訴求的道のりである。
心を綺麗にしなければ、当然幸せなんてない。
自分を本当の意味で幸せにし、かつ同じ幸せを求める人たちにそれを教えたいと思ったら、なおさら取り組まなければならないだろう。