あるヨギのブログ

実際の修行の体験に基づいて、思ったことを綴ります。同じ道をこれから歩もうとする人、すでに歩んでいる人の励みになれば嬉しいです。

信を鍛える

例えば何か稽古事を習うときに、先生の言うことを素直に聞ける人と、自分のこだわりとかプライドがあって言うことが聞けない人がいる。

この違いは、そのまま上達と理解のペースの違いとなる。

例外的に、先生よりも生徒の方が良くそのことについて知っている、と言うこともあるかもしれないが、だったらそもそもその先生につこうと思うのが間違い。

 

修行においても同じことが言える。

 

修行は基本的に、体型立てられた聖典に従って行われるが、まずはその教えに対する尊敬と信がなければそれをやろうとは思わない。

しかし教えへの信頼は、最初はほんのちょっとしたものだし、最初はばーっと勢いよく燃え上がっていたとしても、杉の薪のように、すぐにその炎はおさまってしまう。

だから修行においては、例えば聖典を読んだり、実際にそれについて思索を繰り返すことで、どんどん新しい薪をくべて、その信頼の熱を高める努力を繰り返す。

そうしてだんだん、「ああ、この教えは本当の本当に真理を言っているんだなあ」というのが、体験レベルで理解されてくる。

それと同時に、自分のこだわりとかプライドが見えてくるから、それらを削ぎ落とす作業が並行する。

 

こうして修行者は信を鍛え、強めていく。

実際修行の核となるのは、この信をひたすらに高めていくことではないかと思うことがある。そして多分それで正しい。

だから我々修行者というのは、最初は先生の言うことを全然聞かないめんどくさいタイプの生徒さんなんだ(笑)

それが苦しんだり悩んだりしながら、ブッダや至高者の恩寵によって徐々に素直になっていって、最終的に先生の言うことを100%聞くことができたら、その時点である大きな達成を得るのだと思う。

 

我々には信がない、もしくは足らない。

でもどこかでそれが本当だと知っているから、毎日同じことを繰り返し修習する。

不思議だよね。

信じてないのに信じてるから、苦しくてもその教えについて行こうとする。

 

それが我々修行者なんだ。