その気になったらやってみることの修行的意味
こだわらないという観点から、やってみたいと思ったことはしのごの考えずにどんどんやってみたら良いと思う。
かくいう私は、割と考えてしまうタイプで、石橋を叩いて渡らないことが多かった。
そうなるとカルマの流れがどんどん滞って、魂にフラストレーションが溜まっていく。
その場にいつまでも止まって、経験しなければならないこと、落とさなければならないカルマがそのままになってしまう。
これでは人生が勿体無いし、修行という意味でも、どんどん心を浄化してカルマを落としたいわけだから、やってみたいと思ったことはどんどんやってしまった方がいい。
なんで行動に踏み切れないのかというと、おそらく結果に期待しすぎているからだと思う。
失敗したらどうしよう、というのはまさにそれだ。結果にこだわっている。
修行者は結果にこだわらない。
当然一生懸命やるものの、失敗にも成功にもこだわらない。
無意味な世界の無意味な行動は、どんどんこなしてしまうのが良い。
無意味なんだからやらなくても同じ、というのは残念ながら違う。
完全な覚醒を得た人にとってはそうかも知れないが、行為から自由になれていない私たちにとって、行為から自由になるためには、徹底して行為しなければならない。バガヴァットギータにも同じようなところがある。
そうして行為しまくっていると(行為そのものが目的ではない)、段々と不要なものが削ぎ落ちていくのがわかる。
修行と関係ないものが徐々に人生から勝手に脱落していく。
言うなれば、修行だって行為なのだ。
他のことで全力でできない人は、修行も全力でできない。
全力で修行に取り組みたいと思う人は、まず自分の目の前のことに全力で取り組むといいかも知れない。
それが瞑想となり、本格的な修行を前にしても、全力でぶち当たることができるように思う。
これが、カルマヨーガに通じるのではないかと思っている。